一九三九年九月、独ソ不可侵条約が締結され、スターリンが日本とも同様の取引をする可能性が
浮上したころ、毛沢東は日本の情報部と長期にわたる親密かつ極秘の協力関係を結んだ。蒋介石に
対する破壊工作を強化し、共産党軍を日本の攻撃から守るためである。中国共産党側の工作責任者
は活漢年、日本側は上海副領事で幹部情報将校の岩井英一だった。活漢年は、「日本陸軍、憲兵隊、警察職員各位 本証の所持人に関する照会はすべて日本総領事館に寄せられたい」と書かれた
日本の特別な身分証明書を与えられた。延安と直接接触できるよう、岩井の自宅には延安から無
線技師が派遣されたが、これは「危険すぎる」として実際に使われることはなかった。
活漢年は、蒋介石軍の抗戦能力、蒋介石と中国共産党との軋蝶や列強各国との関係、香港や重
慶で活動中の英米スパイのリストなどの情報を岩井に提供した。
こうした情報は日本から高く評価され、なかには在中国日本大使が「狂喜した」ほどの情報もあったという。
一九四一年一二月に日本が香港を侵略した際には、岩井が中国共産党スパイの撤退を支援した。活漢年が岩井に約束したように、スパイの一部はそれまでどおり日本に情報提供を続け、それ以外のスパイは上海へ移動し
て「われわれの『和平運動』を支援する」ことになった。「和平運動」とは、中国を降伏させるた
めの日本の非軍事攻勢である。なかでも目立った組織は「興亜建国運動委員会」で、活漢年が発足
を手伝い、日本が資金を出し、組織の人材は共産党の地下党員が中心だった。
中国共産党は日本を使って国民党を背後から襲わせたのである。ある共産党スパイは、次のよう
に回想している。