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勝利はだいたい我が方にある

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勝利はだいたい我が方にある

ポーランドのシナリオを中国で再現するという考えは、実際、スターリンの頭の中にもあった。
独ソ不可侵条約から間もない一九二九年九月、ソ連は中国の将来を中心問題に据えて日本と交渉を
始めている。共産党軍および革命根拠地の拡大は対日交渉におけるソ連側の強みとなり、戦後の長
期目標にも資するため、スターリンはこれにきわめて直接的な関心を抱いていた。


落介石軍との交戦に関して毛沢東がモスクフに報告した内容は、 一九二九年から四〇年にかけて
の冬に大きく変化している。毛沢東は、戦闘の性質についてより率直に報告するようになった。独
ソ不可侵条約の締結以前には、交戦は国民党側が共産党勢力を掃討しようとした結果であって共産
党軍は自衛目的の応戦をしただけである、と言い訳していたが、条約締結以降は、蒋介石軍を踏み
台にして積極的に共産党軍の勢力を拡大していく姿勢についてスターリンの承認を求めるようにな
った。 一九四〇年二月二二日、毛沢東はモスクワに非常に強気の報告書を送り、蒋介石軍との交戦
において「勝利はだいたい我が方にある」、「河北で﹇国民党軍を﹈六〇〇〇、上海で…… 一万を職
滅した」と報告している。
スターリンは毛沢束を制止しなかった。それどころか、三日後、中国共産党に対して毎月二〇万
米ドルという巨額の資金供与を承認した。その後まもなく、周恩来はモスクワとの通信に使う新し
い無線装置を携えて帰国し、装置を毛沢東に渡した。毛沢東のロシア語通訳をしていた側近による
と、「毛主席だけがその無線装置を使う権利を持っていました。主席はすべての通信を個人的に取
り仕切り、誰に何の情報を見せるか決めていました」という。
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